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飯盛山 遠景

1・三好長慶の出現

三好長慶  戦国大名といえば誰を思い浮かべるでしょう。 尾張の織田信長や三河の徳川家康、また甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信、駿河の今川義元・・・。
 かれらとほぼ同じ時期、ここ河内飯盛山城を拠点に室町幕府の実権を握り 五畿内及び丹波、播磨、本拠地の阿波、伊予、讃岐、淡路まで権勢を誇っていた人物がいました。  三好長慶(みよし・ながよし 1522〜1564年)がその人です。長慶は元長の嫡子で大永2年(1522)の生れである。 享禄5年に父を失った時はまだ11才であったが、翌年には元服して孫次郎利長と名乗り、伊賀守を称した。   そして天文2年(1533)には一向一揆と戦ったが、翌2年には本願寺と結んて晴元の軍勢と対抗し、 また晴元に属する同族の三好政長とも戦ったが、   やがて木沢長政の仲介で晴元に属した。 父の恨みを忘れたのではあるまいが、複雑怪奇で、反伏常なき戦国の世の保身策であろう。  天文8年(1539)、長慶は晴元に対し幕府料所の十七ケ所代官職を要求した。 これはもと父の元長が任ぜられていたが、その後は同族の政長に代ったのである。  晴元は政長を信任していたので、長慶の要求に応じなかったが、長慶が直接幕府に訴えたところ、 内談衆の大館(おおだて)氏は、  長慶を任用すべきであると将軍に答申している。   長慶と政長の間は、もともとよくなかったが、これで両者の対立は決定化し、 ひいては政長を支持する晴元とも隙を生じた。   長慶の要求に晴元はあわてたが、これは長慶の要求が正当であるとともに、 この十七ケ所が軍事的あるいは経済的に、極めて重要な地域であったことを物語っている。 長慶は天文10年ごろ、父の仇を倒そうと、まず木沢長政をねらったのである。


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